ブラック・ホールにのまれて


2017年5月に出版した拙書「ブラック・ホールにのまれて」 が好評につき、継続販売するはこびとなりました。






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「ブラック・ホールにのまれて」 牧歌舎 2017年5月10日 定価(本体1300円+消費税)



アマゾン、紀伊國屋書店ウエブストア、などネット書店で購入できます。 SF雑誌全盛期の時代、さまざまな話題を提供した奇想天外誌、そこに掲載された短編をえりすぐって編集した短編集です。

どうぞご賞味ください。




トリフィドの日にマヤ占い

ジョン・ウィンダムのSF長編「トリフィド時代 the day of the triffids」はアメリカの雑誌「リバティー」に1950年頃連載され、その後単行本化された。

訳者の井上勇のあとがきによれば、連載当初のストーリーは単行本とは多少ちがっていたそうである。
人類が盲目になるのは同じでも、流星雨ではなく、火星からの宇宙船が空中分解し、その積荷が光線を発したのが原因で、このあとがきでは、トリフィド自体も積んできた火星のもののようである。



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トリフィド時代 ジョン・ウィンダム 原作1951年   東京創元社 1963年12月20日初版



SFとしては破滅テーマといえるだろうが、「ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ、カミーユ・フラマリオンなどの未来小説の正統を継ぐ作家となった」(あとがき)し、また「思想的空想小説の色彩が濃い」のが特徴である。

じつは筆者は、この思想的空想小説の部分に共鳴しているのだ。
なぜなら、生き残った人類が(イギリスで)①あたらしい道徳律による新世界を建設しようとするグループ ②旧道徳により世界を救おうとするグループ ③キリスト教による新世界を作ろうとするグループ ④新封建主義社会をつくろうとするグループ などに旅の途中で遭遇する物語でもあるからだ。SFというより破滅的状況で人類がどういう主義主張で生き延びようとするか、それを考察した小説の側面が強いのである。

SFとしてはもちろんトリフィドにまつわる農場とか専門家などの話しが魅力を放つ。植物と人間との闘い、という状況はなにか絶滅危惧種の話の裏返しみたいにも思える。


前置きが長くなったが、マヤ占いとの関連とは? なにかのまちがい?

いいえ、まちがいではないのです。

ウィンダムが最初に放ったこのSF単行本には、彼自身が投影されていて、主人公ウィリアム・メイスンは多分に作家の分身であるように感じられる。
というか、彼自身なのである。

つまり、作中で作家は自分自身がトリフィドと闘い、ジョゼラ・プレイトンという女性と出会い、結ばれるのだ。

ウィンダムの生年月日は、1903年7月10日だ。
これをマヤ占いで占ってみると、
かれの守護数は2
守護神は3であった。

この守護数2のキーワードは〈生け贄〉である。つまり生け贄となって命をささげる、みえないところで献身的な働きをつづける。という意味なのだ。

では、守護神3とは?
こうもりの館の神のことで、「悪魔に魅入られやすいあなたにもっとも必要なのは、いつも心を新鮮に保ってくれる人間、精神と感情に刺激をあたえてくれるパートナーです」(マヤ占い)

ジョン・ウインダムは「トリフィド時代」をパートナーとの出会いの姿を求めて書いたのだとも言えよう。動機のいくぶんかはそこにあったはずである。

では、マヤ占いとの関連を述べよう。

主人公ウィリアム・メイスンはロンドンを出発する。(愛する)ジョゼラ・プレイトンと離ればなれになっていたのである。彼女を捜しに、彼女に会いにかれはロンドンを出発したのだ。

そして、いくつかの街を過ぎ、さまざまな思想グループに会い、トリフィドと戦い、いろいろな人と出会い、ついに最終目的地らしき方向へトラックを進めるのだ。
それは南の方角であった。
そして、かれの守護神もまた「あなたの方角は南が吉です」というのである。

こんなことは1950年ころ、今から70年も昔のウィンダムが知りえようはずがないではないか!(それとも彼は知っていたのか)

ドーセット、ビーミンスターからサセックスのパルバラの丘に向かったかれは、難儀のはてにジョゼラと再会するのだった。

かれは無意識のうちに作中でマヤ占いにしたがって動いていたのである。南の方角を信じて走ったのである。

SFというかなんというか、ほんとうになんと不思議な物語であることか!

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ジョン・ウィンダム(画像引用)





これは単なる空想ばなしにすぎない。実際のウィンダムの人生がどんなものであったのか筆者は知り得ないのだ。
だが、黒沼健の怪奇物語ではないが、SFにも不思議な面が隠されているものであるーー今回の解析で、それを感じました。




最後に作中のきわめつけのシーンを回顧しておきましょう。

〈二人で落ち着く先を検討していたときのシーン〉

「いい水のでる丘ってわけか、湖水地方は? いや、だめだ、遠すぎる。ウェールズなら、いいかもしれない。それとも、エイスムアか、ダートムア---あるいはもっと足をのばして、コーンワルか。ランズ・エンドのあたりだったら、いつも大西洋を渡ってくる汚れない南西の風がある」とメイスンがいった。
ジョゼラは「サセックスのダウンズ地方はどうかしら? わたし、北側でまっすぐにパルボローを見渡せる場所にある、古い気持ちのいい農家を一軒知ってるの」と提案した。

このシーンがなければふたりは再会することがなかったのだ。メイスンは旅の最後にこのやりとりをふと思い出し、彼女がパルバラに向かったはずだと確信したのである。


〈ウィリアム・メイスンがたどった街〉

①セント・メリーン病院でめざめる。

②ハイドパークなどロンドンの数カ所、大学など

③ウィルトシャー ディバイザス近郊 ティンシャム ロンドンから西へ160km

④ドーセット ビーミンスター  ロンドンの南西220km

⑤サセックス ダウンズ パルバラ (ロンドンから南へ80km)

あとは省略します。

黒沼 健

「空の大怪獣ラドン」のあと、黒沼健の著作を調べてみたが、新潮社版の所謂異色読み物シリーズは次のとおりである。

1 秘境物語 1957
2 謎と怪奇物語 1957 →1965年版 昭和40年十一刷を所有
3 驚異物語 1958
4 謎と秘境物語 1959
5 新・謎と怪奇物語 1961
6 未来をのぞく話 1962 →1967年版 四刷を所有
7 古代大陸物語 1963
8 予言と怪異物語 1964 →1964年版初版を所有
9 奇人怪人物語 1965
10地下王国物語 1966
11超古代大陸レムリア 1967
12天空人物語 1968 →1968年版 昭和43年版初版を所有
13第二の世界物語 1969
14神秘と幻想物語 1970 →1970年版昭和45年版初版を所有
15恐怖と戦慄物語 1971
16失われた古代都市 1976

17七人の予言者 1974 (文庫)
18霊と呪い 1974 (文庫)
19失われた古代大陸 1973 (文庫) 1973年版 昭和48年版二刷を所有

黒沼健は、前記ラドンのほかに大怪獣バランの原案、著作なども手がけており、ミステリーでもコーネル・ウールリッチ→ウイリアム・アイリッシュなどの翻訳があるが、筆者の読んだ版は稲葉昭雄訳などで、黒沼訳のものは読んでいない。

「失われた古代都市」と「失われた古代大陸」はべつものである、という程度の理解だが、「失われた古代都市」は読んでみる価値ありとは考えている。

とりあえず、手持ち所有の書籍の範囲で気になった点など、次回のブログで考察してみたい。

文体

日本人作家の文章をお手本にしたい、と思うが、なぜかうまくいかない。
外国人作家の翻訳の方がお手本になるというのは、皮肉である。翻訳家の方が文章をお手本にしやすいのであろう。

お手本として、たとえば、志賀直哉、芥川龍之介、川端康成、村上春樹、三島由紀夫、坂口安吾などがあげられるが、なぞってみるとすぐにわかるが、自分の文体の糧にはなりそうもない。かれらにはかれらの文体があり、自分には自分の文体があるのだ。

翻訳文にはそれがない。というのは不思議である。女流作家の方がむしろ参考になったりするのはもっと皮肉である。

わたしのお手本は、「場所」、「シンプルな情熱」などで知られる、アニー・エルノーとか、「秋のホテル」などのアニータ・ブルックナーである。

男性作家だと、やはりギャビン・ライアルとか、イアン・マキューアン、ジェラール・ド・ネルヴァル、ボードレール、アロイジウス・ベルトラン(ちがうか)などなどであろうか。

詩と散文の融合という点では一致しているからいいかな?

SFで詩と散文の融合を試みると、SFとはそもそも夢とあこがれそのものなので、文体が成立しなくなるおそれがある。

SFは詩そのものなのである。
それを理解していない作家はSFを書いているのではなく、なにか別の醜悪な世界を提示しているのである。

ラドンの誕生を書いた黒沼健はノンフィクション風の読み物をSFとして提供しようとした。
その文体は文体としてあるのではなく、記事としてある。
それを次回、すこし紹介してみよう。


ラドン心中

「空の大怪獣ラドン」が公開されたのは1956年のことだ。もう60年も昔の映画だが、原作は黒沼健の「ラドンの誕生」であるという。

だが、黒沼健はご承知のとおり、古代史もの地底、海底ものの空想冒険小説を多くてがけている作家である。なにも好きこのんで大怪獣が心中するラストを選ばなくてもよさそうである。原作をお読みになった方がいれば、脚本との相違をご教示頂ければさいわいである。
映画をおわらせるための秘密兵器が用意されなかったとか、いろいろな制約があったのかもしれない。興行成績がそれほど見込めないと考えたのかあるいはすこし手を抜いたのか、NGシーンをそのまま使ったのか、とにかくオキシジェンデストロイヤーとか特殊な抹殺兵器は登場しない。




地上に降り立ったラドンに向けて自衛隊の攻撃開始!

鳥獣保護法とか適用されないのはもちろんだ。
で 仕方なくこの二羽?のラドンを人間社会から滅し去るため、帰巣本能を説明根拠として、人為的阿蘇山噴火→溶岩流→舞い降りる→重なり合って焼けこげる。。。という心中ラストシーンを造り上げた。

まさにラドン心中である。(雌雄? 二羽目は一羽目の子ども?)

だが、これを納得して見た人はいる? 筆者はあまり共感できなかった、というところだ。

生命は分裂増殖に限界を感じて?有性生殖に転じたのだーーそれほど自らの存続にこだわりがあるのになぜ子どもを作ることなく心中してしまうのか? 変だと思いません? 理由は? 二億年ぶりにこの世に誕生したのに生きることに絶望したのでしょうか?
三島由紀夫とか芥川龍之介、川端康成、ジェラール・ド・ネルヴァルみたいに自死を選んだのでしょうか?




そもそもラドンは中生代の翼竜プテラノドンを原型としてつくられている。これの卵が原爆の影響で突然変異して孵化したときには、翌長120mにもなる巨大生物として成長するのである。ーーその餌となったのがメガヌロンというトンボの幼虫つまり大ヤゴだが、これは実在しない、制作者のでっちあげだ。2憶9000万年前石炭紀のころメガネウラ、メガネウロプスという大トンボがいたという化石がでているというが、このあたりが空想生物メガヌロンの原型であろう。 だが、大きさはせいぜい翌長75cm程度だ。

ラドンの食物として十分な栄養をあたえるにはどのくらいの数のメガヌロンがいなければならなかったか?

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そしてより深い謎は、この、幼鳥が内側からやぶれる巨大な卵がなぜ地層岩盤の間で無傷でいられたか?であろう。

原作にはなんらかの説明があるのだろうか? 

さて、怪奇趣味はともかく、鳥類は人類とおなじく進化の一方の頂点にたつといわれている。
鳥類のバリエーションとか生態とかをほんの少しでも調べればその精妙さに驚くことだろう。

「共生」とともに生命の神髄にせまるなぞがそこにあるのだ。

たとえばなぜ空をとべるのか? 「空もとべるはず」(スピッツ)と、古代翼竜はおもったのだろうか?

生物は共生など考えない、進化したいと思わない、すべて進化という概念が考え、形をかえさせるのだ(人間が考える、考え出すのだ)

ならば人間が進化の途上にあるならば、鳥類だってもうすこしちがった形に変化していてもいいのではないか?

ラドン心中をみながら筆者はしきりにあいずちをうっていた。
それはもちろん「ダランベールの卵」のことである。


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ラドンの心中シーン

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