ラドン心中

「空の大怪獣ラドン」が公開されたのは1956年のことだ。もう60年も昔の映画だが、原作は黒沼健の「ラドンの誕生」であるという。

だが、黒沼健はご承知のとおり、古代史もの地底、海底ものの空想冒険小説を多くてがけている作家である。なにも好きこのんで大怪獣が心中するラストを選ばなくてもよさそうである。原作をお読みになった方がいれば、脚本との相違をご教示頂ければさいわいである。
映画をおわらせるための秘密兵器が用意されなかったとか、いろいろな制約があったのかもしれない。興行成績がそれほど見込めないと考えたのかあるいはすこし手を抜いたのか、NGシーンをそのまま使ったのか、とにかくオキシジェンデストロイヤーとか特殊な抹殺兵器は登場しない。




地上に降り立ったラドンに向けて自衛隊の攻撃開始!

鳥獣保護法とか適用されないのはもちろんだ。
で 仕方なくこの二羽?のラドンを人間社会から滅し去るため、帰巣本能を説明根拠として、人為的阿蘇山噴火→溶岩流→舞い降りる→重なり合って焼けこげる。。。という心中ラストシーンを造り上げた。

まさにラドン心中である。(雌雄? 二羽目は一羽目の子ども?)

だが、これを納得して見た人はいる? 筆者はあまり共感できなかった、というところだ。

生命は分裂増殖に限界を感じて?有性生殖に転じたのだーーそれほど自らの存続にこだわりがあるのになぜ子どもを作ることなく心中してしまうのか? 変だと思いません? 理由は? 二億年ぶりにこの世に誕生したのに生きることに絶望したのでしょうか?
三島由紀夫とか芥川龍之介、川端康成、ジェラール・ド・ネルヴァルみたいに自死を選んだのでしょうか?




そもそもラドンは中生代の翼竜プテラノドンを原型としてつくられている。これの卵が原爆の影響で突然変異して孵化したときには、翌長120mにもなる巨大生物として成長するのである。ーーその餌となったのがメガヌロンというトンボの幼虫つまり大ヤゴだが、これは実在しない、制作者のでっちあげだ。2憶9000万年前石炭紀のころメガネウラ、メガネウロプスという大トンボがいたという化石がでているというが、このあたりが空想生物メガヌロンの原型であろう。 だが、大きさはせいぜい翌長75cm程度だ。

ラドンの食物として十分な栄養をあたえるにはどのくらいの数のメガヌロンがいなければならなかったか?

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そしてより深い謎は、この、幼鳥が内側からやぶれる巨大な卵がなぜ地層岩盤の間で無傷でいられたか?であろう。

原作にはなんらかの説明があるのだろうか? 

さて、怪奇趣味はともかく、鳥類は人類とおなじく進化の一方の頂点にたつといわれている。
鳥類のバリエーションとか生態とかをほんの少しでも調べればその精妙さに驚くことだろう。

「共生」とともに生命の神髄にせまるなぞがそこにあるのだ。

たとえばなぜ空をとべるのか? 「空もとべるはず」(スピッツ)と、古代翼竜はおもったのだろうか?

生物は共生など考えない、進化したいと思わない、すべて進化という概念が考え、形をかえさせるのだ(人間が考える、考え出すのだ)

ならば人間が進化の途上にあるならば、鳥類だってもうすこしちがった形に変化していてもいいのではないか?

ラドン心中をみながら筆者はしきりにあいずちをうっていた。
それはもちろん「ダランベールの卵」のことである。


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ラドンの心中シーン

SF単行本発売のお知らせ

拙作短編7編を集めた単行本が発売されました。
内容は、当時の奇想天外誌に掲載した書き下ろしSF短編を加筆修正したものです。雑誌のイラストは著作権の関係で掲載できませんでしたが、往時のSFの雰囲気が横溢しています。

有名書店の棚にはありますが、ネット通販、紀伊國屋書店、honto、TSUTAYA、Honya Club、7net.omni7、Amazonなどで購入可能です。(本体1300円)





「ブラック・ホールにのまれて」 宮本宗明  牧歌舎 2017年5月10日発行 



SF雑誌全盛期の短編の数々をどうぞお楽しみください。



もっとも危険なゲーム

ギヤビン・ライアルの「もっとも危険なゲーム」THE MOST DANGEROUS GAME は1963年に英国で出版された。

SFとは直接の関連はありませんが。

しかしながら、この作品を語らなければSF作家 宮本宗明 は語れないのである。同人誌宇宙塵誌初掲載 33 1/3の原動力となったミステリ小説だからだ。

ミステリファンならおなじみの航空スパイものになる?この小説本は早川書房により版権取得され1976年6月30日に刊行された。すりきれた感じの書籍画像はカバーなしのものである。







「もっとも危険なゲーム」 ギャビン・ライアル ハヤカワミステリ文庫 1976年刊 菊池 光訳





ストーリーは序盤、ほとんど活劇のない平淡な展開をみせる。 ヒチコック映画みたいな極北の飛行場で金持ちの依頼人が主人公の前に現れる。

そのシーンでお気に入りのフレーズがある。
二番目の金持ちの依頼者アリスが登場するシーン・・・

「飛行場はあいかわらず石と砂の山で、建物に通じる泥の上の敷板もそのままであった。女はその端で、積み上げた白い旅行鞄の前で私を待っていた。
なんだか同じような経験をした記憶がある。二日酔いの状態までそっくりだ。・・・・」

その前、最初に登場する金持ちの男、フレデリック・ウエルズ・ホーマーのシーンはこうだ。ーー「今ではその建物へ行くのに、泥土の上に敷いた板の上を五十フィートほど歩いて行かねばならない。男はその通路の端で待っていた」
このときも荷物を通路に並べているのだ。しかしガンケースがある点だけ相違している。

そしてホーマーは言った。「ケアリさん、あなたの飛行機で私を運んでいただけないかと思いまして」


わたしはこの「なんだか同じような経験をした記憶がある」というフレーズが大好きだ。女性を前にしてとぼけている。しかし重要な伏線へと導いていくのだ。

ホーマーの妹のミス・ホーマー しかし、今はアリス・ビークマン夫人であるが、「あなたになぜこんなことを話すのかわからないけど、私と主人は別れることになっているの」
「失礼しました」
彼女はチラッと見た。「いいの」

これが彼女のひとめぼれのサインなのである。ビルはそれを感じているはずだ。ふたりの恋物語は以下のシーンでより鮮明になる。

「彼女はだまってうなずいた。ニューヨークの五番街仕立てのスーツを着て、髪の毛を陽光に輝かせて立っている姿がたいへん愛らしかった。この辺は無人境だな、悲鳴はどこへもきこえないな、と頭の中にフッとうかんだ。
 不逞な考えが頭の中を通りすぎた。

ビルはふつうにアリスに惹かれ、それをギャビンライアルはこんな控えめな形で読者のまえにさしだす。

そのあと、ビルケアリは眠らされて危機一髪のところをアリスに救われ、なぜ彼女が兄のホーマーを追っているかの真の理由が明かされないままホーマーのいるはずの熊うち小屋へと飛行するのである。

湖畔の小屋で兄を待つ。食事をしていると日が暮れる。ふたりは自然に結ばれるそこになんのわだかまりも、理由も、欲望の渦もなく、あたりまえの恋人どうしみたいに結ばれるのだ。

「彼女は暗闇の中で静かに泣いていた。森の中から遠く聞こえてくる音のように、誰にも救いようのない淋しい声であった」
これがふたりの分かれのフレーズである。

ハイファイセットの オーラッキーレディは 寂しさがふたりを引き寄せただけ 愛はおおきな海へと流れゆく あなたと出会えたこと後悔はしないわ と歌うが、ビルとアリスはもっと乾いている、ドライである、ナイーブであってハードボイルドでもある。

これが恋愛か


この小屋のシーンは、ギャビンライアルの経験談みたいにも思えるし、パイロットの理想を書いたということなのかもしれないが、わたしにはよく理解できない。あってもなくてもいいシーンなのに、このシーンがないと、ラストのフレーズが意味をなさなくなる
たぶんこのシーンがこの物語でいちばん大事なところなのであろう。

それはこうだ。

「私はうなずいた。たしかに私はうまくいかないと言った。あの時それが正しかったのなら今だって正しいはずだ。エンジンをかけてビーバーを水の中に戻した。
ふり返って見ると、彼女は湖畔に立つ淋しそうな小さな人影であった。数ヤードと百万ドルと一つの死を隔てた遙かな姿であった」

一つの死

それはホーマーの死である。ふたりをへだてる決定的な要因である。これがあるから恋愛は別問題になる。
つまりそれが もっとも危険なゲームたるゆえんなのだ。人間からとおざかる、人間と対決するという狂気 それがこのミステリのひとつの伏線となって流れている。

読者の興味を引く要素は他にいくつかある。

それは小さな水陸両用機であり、水上機であり、SISであり、スオポであり、金貨を使った密輸であり、ロシアとフィンランドとの確執であり、NATOと共産圏の闘いであり、第二次世界大戦の北欧での闘いであり、航空機事故とロシア国境を侵して飛行することなどである。

熊を撃ちにきた金持ちとSISで訓練をうけたものの銃撃戦

昔ばなしのような○○の宝、ニッケル鉱山、それを追っている者、スパイの正体、ケアリがなぜフィンランドでしがないパイロットなどやっているのか

そうしたことが謎かけとして淡々と語られ、ストーリーは淡々と繰り広げられる。試験問題みたいに記憶しておかないとだれがなんのために動いているのか訳がわからなくなるーーしかしそうした仕掛け自体 わたしのお気に入りたるゆえんである。

伝説みたいな同僚のハルトマンの行動が過去、少し前、そして現在と語られ、意外な謎ときがおとずれる。
そして銃撃あそび。

わたしもかつて散弾銃をぶっぱなしていたことがあるので銃撃戦は実感をもってうけとめられる。
ビルケアリ 撃たれたのに 一時間も深夜飛行して帰還することなどできるのであろうか?

そのタフさ加減は、かの競馬シリーズにも通ずる英国探偵小説の醍醐味なのだろうか?
外科医委がこの傷のシーンを読むと、それは君、眉唾ものだよ とでもいいそうなのだ。

わたしはかねがね、いつかビルケアリのような人生を送れたら、と思っていた。

だが、パイロットでもないし、せいぜい自然科学的な冒険にのりだすくらいである。

動けなくなる

いつか

そうなるまえに 冒険したいような気もする、、、、

もっとも危険なゲームのような?



愛の詩集

室生犀星が「愛の詩集」を自費出版したのは28歳(大正7年)1月のことであった。筆者の「愛の詩集」は学生時代で今から数十年も昔のことだが、その相違をのべるために室生をとりあげたわけではない。筆者は同じ題名の詩集があることを知り、それを読みたいとずっと思っていた。ハイネとかの愛の詩集ではないのはわかっていたが、今回はじめて手に取り、読んでみて「やはり」と感ずるものがあった。ーー学生の「愛」と文学者詩人の「愛」はかくもかけ離れた内容のものなのだ。




「愛の詩集」室生犀星 1997年9月20日発行 小沢書店刊


筆者の「愛の詩集」はこのブログの最初のほうに掲載してあるのでたまに読み返すが、なかなかまねのできない詩ではある。「いいかも」といってくれた若い人もかつてはいたが、その人の消息はすでに知れない。

室生犀星の自序「詩はたんなる遊戯でも慰謝でもなく、また、感覚上の快楽でもない」「その人に迫ったり胸や心をかきむしったり、あたらしい初々しい力を与へたりするのである」ということばがかれの「愛の詩集」を物語っている。

だが、

山頭火の「わたしはあるべきものを捨てようとするのではない、在らずにはいないものから逃れようとするのではない。『存在の世界』を再認識して再出発したい私の心がまへである。
うたうものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである」ということばは単純なようでいて、胸をうつ。

とりただして室生犀星の詩が劣るとかいっているのではない。こうして数十年のときを経て自作詩集と室生の詩集を読み比べられる時に乾杯したい気分なのだ。

はたして室生犀星の詩は男の詩であった。かみくだいたいい詩だった。直裁で心に響く詩であった。

だが、

かの村上章夫がいったことばーー「詩は なんのために売れるのか」のひとことが心に響く残る滲みる。

なんのために生まれてきたのか と かれは問いたかったのだろうか?(すでに亡くなって久しい彼はなにを問うたのか?)


かなりの数の詩集にふれてきたが、室生犀星の詩集はあらたな地平線をかいまみせてくれた。

つぎは木下杢太郎の詩集にふれてみようか。

  

奇想天外ー「ブラック・ホールにのまれて」

筆者 、奇想天外誌初掲載のSF短編が「ブラック・ホールにのまれて」である。


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今般、奇想天外誌掲載のSF短編小説をいくつか集めて、短編集として出版する運びとなりました。(詳細は後日に)
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